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チョ·ヨンギ牧師の説教

落ちぶれて不安にならないで(詩 42:5)

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「私の魂よ、あなたがどうして落胆し、どうして私の中で不安になるのか、あなたは神様に願いを置きなさい。彼が現れて助けることによって私が依然として賛美するだろう」詩編42編5節

私たちの体は私たちの心が住む家です。 だから、体の主人は私たちの心ですが、この心が中心を取れずに方向を失い、あえぐと泥棒が入ってきます。 聖書には悪魔を泥棒と呼んでいます。 泥棒が来るのは盗みをして殺して滅ぼすことだけだと言いましたが、主人が中心を取れずに彷徨してあえぐと、その隙間に泥棒が入ってきて盗みをして殺して滅ぼす凶悪なことを行うことです。 ですから、私たちは誰でも私たちの心をうまく守れなければ、落亡と不安という病気にかかります。 心の中心をつかめず、方向を失って彷徨すると、どんなに偉大な人も落胆し、不安になります。 私たちはどうしても落胆し、不安に思ってはいけません。 どうすればそのようにできますか?

1. 神様を心の主人として祀らなければならない。(私たちの体に丈夫に住む主人になるために)

私たちの心を神様に差し上げて、神様が心に主人として来られなければならないのです。 私たちの力でこの世の心配、心配、不安、焦燥、絶望を克服できないので、このすべての世の中を克服し、上手に勝つ神様を私たちの心に主人として丈夫に祀っていれば、神様と共にいるその心は体を安全に守っていくことができるのです。 私たちは神様の父親を心の中の父親として仕え、神様がイエス·キリストを通じて私たちを救ってくださるために施したすべての準備を悟って知らなければなりません。 神様はイエス様を通じて法的に私たちを拘束するために最善を尽くしました。 神様は私たちの罪、不義、醜悪、呪い、絶望、死をイエス様に出して任せ、罪のないイエス様が代わりに背負って体を裂いて血を流して十字架から全て清算するようにしました。 法的に私たちが罪から自由を、過ちから解放を、病気から直すことを、呪いから祝福を、死から永生を得られるように父が道を開いておきました。 その後、私たちを呼び、聖霊を送り、イエス様が成し遂げた土台の上に立って、私たちに変化をもたらすのです。

 聖霊は運行して変化させる霊として来て歴史するのに土台がないことには歴史がありません。 神様のお父さんがイエス様を通じて罪を犯し、不義で醜悪で捨てられて当然な私たちのために、大俗の土台を築きました。 その後に聖霊をお送りいただくので、聖霊が運行して変化させるのです。 聖霊は創造し、変化させるものです。 今日のこの時間にも、聖霊はここに来て、我々の生涯の中に創造と変化をもたらすために歴史していらっしゃるのです。 風のようにミネラルウォーターのように来て歴史していますが、私たちがイエス·キリストの福音の言葉を聞いて心に受け入れて土台を築けば、その言葉に従って聖霊が私たちの中で歴史することです。 私たちはこの聖霊様を頼りにすれば、素晴らしい神様の愛を確認することができます。 私たちのような罪人たちを主が呼んで十字架の功労を通じて私たちの罪を価値なく全て清算しました。 聖霊を送って変化させた神様の愛は永遠の愛なのです。 神様の愛は、一日愛し、その翌日に私たちから離れてしまうような愛ではありません。 永遠に私たちを捕まえて変化させるのが父親の神様の愛なのです。

 ローマ書5章5節から8節によれば「願いが私たちを恥ずかしくさせないことは、私たちに与えた聖霊によって神様の愛が私たちの心に腫れたことなので、私たちがまだ軟弱な時に約束どおりキリストが敬虔でない者のために死んでも、義人のために死ぬ者が容易ではなく、先人のために勇ましく死ぬ者がいることと、私たちがまだ罪人となった時、キリストが私たちのために死ぬことで神様は私たちへの自分の愛を確証した」とされています。 すごい叙事詩です。 このような愛を神様が私たちに施してくださるのに、私たちが恐れてはならないのです。 したがって、神様と私たちが一緒に暮らしていて、神様が私たちの中で嬉しく楽しく暮らせるように、神様の意に従って神様を喜ばせる人生を生きるように私たちが努力しなければならないのです。

 イエス様は私たちのために苦難を受けるためにこの地に来ました。 私たちの罪と不義、醜悪と呪い、失敗と絶望を清算するためにイエス様がいらっしゃいました。 したがって、自分ではなく私たちのために神様が十字架に釘付けになって死んだように、私たちもキリストに似た人生を生きることを願うのです。 私たちの初歩的な信仰生活はイエス様の十字架の代属を通じてすくい上げることです。 しかし、罪から自由を得て、過ちから許しを受け、病気から治療を受け、呪いと貧困から解放を得て、希望を得て、死から生命を得て、魂がよくなり、凡事によくなって強健な人になったなら、今はキリストを見習って私の隣人のために十字架をかける人生を生きろということです。 仕え、愛し、奉仕し、分かち合い、隣人のためにキリストの栄光、神の栄光を表すことになるこのような人になることが神が望むことです。 したがって、エフェソ書4章12節で13節に「これは聖徒を完全にして奉仕の仕事をさせ、キリストの体を立てようとするので、私たちが皆神様の息子を信じることと知ることの一つになって完全な人を成し、キリストの成長した分量が充満するところまで至ることを願う」という言葉通りになることを神様が言うのです。

2. お言葉に固く立つべきだ

私たちがこの世に生きている間に、環境に左右されずに堅固に生きるためには、お言葉に固く立たなければなりません。 イエス様も目に見えないし、聖霊様も目に見えません。 それでは神様のお父さんとイエス様と聖霊様がどこにいらっしゃるのでしょうか? お言葉と共にいらっしゃいます。 お言葉の中に聖霊とイエス·キリストとお父さんが歴史するものです。

 キリストが私たちを自由にしようと自由を与えたので、したがって信仰に強く立ち、二度と鐘のくびきを背負うなと強く信仰で抵抗しなければならないのです。 ですから、その抵抗できる恩恵はお言葉にあるのです。 この言葉をただデコレーションで展示せず、教会に来る時だけ持って行ったり来たりせず、私たちの心の中にしまっておき、この言葉で環境に対抗しなければならないのです。 近づいてくる苦難と危機を運命と運命として受け入れてはいけません。 言葉を知った後、言葉に反することは抵抗しなければなりません。 罪の誘惑が来れば言葉で立って罪の誘惑に対抗しなければならず、病気が来れば病気に対抗しなければならず、幽霊が来れば幽霊に対抗しなければならず、事業上困難が来て苦難が来れば祈り、信頼で対抗しなければならず死の勢力まで対抗しなければならないのです。 悪魔を対敵せよ、そうすればあなたを避けるようにと言ったのです。

 聖書の言葉をたくさん覚えておいて、心に刻むことがどれほど良いかわかりません。 眠る前に詩篇23編を覚えて眠り、朝起きても一番最初に詩篇23編を覚えてみましょう。 その言葉を覚えて信じれば、聖霊が心の中に歴史するのです。 この言葉を話すと、この言葉の中に驚くべき力が私たちの心をとらえてくれるのです。 私たちは詩編23編が語る羊飼いになった神様を信じます。 その次にヨハネ三書1章2節に「愛する者よ、君の魂がうまくいくように、君が凡事にうまくいって強健であることを私が願う」という言葉も覚えましょう。 私たちの心はよくゆらゆらします。 どのように生きるべきか、私たちに対する神様の意思が何なのか分からず、怖い時にこの言葉を読むことです。 愛する者よ、君の魂がうまくいくように、君が凡事にうまくいって強健であることを私が求めると言ったのだから、私たちは必ずうまくいくことを考えてうまくいくことを夢見て、うまくいくことを信じなければなりません。 うまくいくことを強く言わなければなりません。 かすかに言ってはいけません。 強く言わなければなりません。 悪魔もうちのアダムとハワイを誘うときに強く言いました。 ハワを見てこの善悪の果を取って食べろと言うと、ハワが食べると死ぬかと言うと「絶対に死なない」と悪魔が強く言いました。 「君がこの善悪の果実を取って食べれば目が明るく、善悪を知ることが神のようになる」このように強く否定的で不純種になるように言ったのです。 ですから、私たちも強く肯定的な言葉を言わなければならないのです。 神様の言葉を読んで暗記して「私は不足がない。 主の善良さと慈しみ深さが本当に私に従う。 私は自分の魂がうまくいき、凡事にうまくいき、強健になる」と強く言わなければなりません。

 私たちは言葉を通じてこの世で勝つのです。 心に恐怖がある時、イザヤ41章10節で11節の言葉がどんなにいいですか? 「恐れるな、私があなたと共にするから驚くな、私はあなたの神様になるから、私があなたを強くするようにする、本当にあなたを助ける、本当に私の義理堅い右手であなたを握るだろう、とあなたに怒っていた者たちが恥と悪口を受けるだろう。」 あなたと争う者は何でもないようになり、滅びるだろう」

 この言葉を黙想して暗唱するので、私たちの心の中に入ると勇気と力が湧くのです。 誰も頼ることができず、天地が真っ暗で寂しい時も、言葉は光明の光のように心に入ってきて「恐れるな、私があなたのようにする。 驚くな、私はあなたの神になる。 私があなたを固めるようにする。 実にあなたを助けてくれる。 実に義理堅い右手であなたを支えてくれる」と勇気を与えてくださるのです。 ですから、私たちにくださった最大の恩恵と贈り物がお言葉なのです。 言葉を通じて神様が現れ、言葉を通じてイエス様が訪ねてきて、言葉を通じて聖霊が歴史されるのです。 だからこそ、言葉をたくさん覚えて、その言葉の中に生きることが、ものすごい祝福になるのです。 また、私たちはお言葉にしっかりと立ち、私たちを拘束したイエス様の恩恵を確実に悟って知るべきです。 お言葉の中で神様を主人として確実に祀れば、すべての不安と恐怖がすべて消え、心強く立つことができるようになるのです。

3. 私の心を治めなければならない

これからは私たちは自分の心を治めなければならないのです。 他の人が私たちの心を治めてはいけません。 どうやって私たちの心を治めますか? 私たちの考えを治めてこそ心を治めることができます。 「私はできない。 私はだめだ。 私にはできない」といったあらゆるマイナスの考え方を心に留めておいてはいけません。 最近私のところに来てマイナスなことを言う人が多いです。 「韓国には希望がない。 政治が騒がしく、与党、野党が互いに対決するのに、自分たちの間でも分裂し、噛みちぎって戦っていて、また貧富の格差は激しくなり、事業はうまくいかない」と、あらゆる不平を言うのです。 すると、私はしばらく聞いていて、"それはいい知らせですね"と言います。 なぜなら聖書によれば創世記1章2節に「土地が混沌として空虚で黒岩が深さの上にあり、神の霊は水面の上に運行される」と空虚で混沌と黒岩が深くてこそ聖霊が歴史するのです。 韓国にそのような環境が近づくと、神様が特別に関心を持って聖霊の歴史を起こし、新しい創造をくださるようになっています。 したがって、私たちの教会はこれが幸いであり、もっと祈ってもっと信頼で愛を施し、伝道を熱心にできる良い機会が来たと考えなければなりません。 マイナスのことを考えてはいけません。 プラスを考えないといけません。

 ことわざ4章23節に「すべての守るべきものの中で、より一層あなたの心を守れ、生命の根源がこれから他人である」と記録します。 考えから生命が出てきます。 肯定的な考えをすれば肯定的な生命が出てきて、否定的な考えをすれば否定的な生命が出てきます。 「できない、できない。 できない」と思えば、その命を心の中に生み出し、そんな運命と環境を作り出すのです。 多くの人が自分の生涯に否定的な展望をします。 だから悪い展望台になるしかないです。 悪魔が好きだと追いかけてきて、否定的な展望に従って叶えてくれます。 ですから、否定的な期待をせず、どんなことがあっても良いことが起きることを期待しなければならないのです。 「今日は気分がいい。 今日は元気だろう。 今日、人々が私を愛するだろう。 今日はいいことが起こるだろう。 今日の仕事はうまくいくだろう。 今日成功するだろう」このように良いことが起きることを期待すれば、その期待通りにまた神様が歴史されることです。

 ローマ書8章28節に「私たちが知っているが、神を愛する者、すなわち彼の思い通りに歌われた者たちには、すべてが力を合わせて線を成す」と言ったが、私たちが線を成すことを期待して生きなければならないのです。 そして、次に不安と恐怖が気に入ったら、不安と恐怖を受け入れてはいけません。 信頼で対敵しなければならないのです。 不安と恐怖は、信頼がないときにやってくるものです。 うまくいかないと思えば、怨讐悪魔が私たちを盗み殺して滅ぼそうと考えているので、不安と恐怖が訪れます。 しかし、私たちは主を信じています。 神様が私と一緒にいることを信じているので勝つことができます。 したがって詩編42編5節に「私の魂よ、あなたがどうして落胆し、どうして私の中で不安に思うのか、あなたは神様に願いを置きなさい、彼が現れて助けることによって私が依然として賛美するだろう」という告白を記憶し、常に暗唱しなければなりません。 神様が一緒にいらっしゃるのに不安があるんですか? 神様を恐れない人は世の中を皆怖がります。 しかし、神を愛し、恐れる人は、世界を恐れていません。 神様が一緒にいらっしゃるのに恐れることは何がありますか? 「神様は私の避難所です、私の要塞です、私の依頼する神様なので、彼が羽で私を覆い、羽の下で私を守ってくださる」このように考えて告白し、神様を眺めて神様を感謝し賛美すれば不安と恐怖が消えます。 心の中に不安と恐怖をそのまま持っていれば、恐ろしい破壊をもたらすのです。 盗みをして殺して滅ぼすのです。 そのため、不安と恐怖が近づくと、神様に任せて大声で賛美歌を歌ってください。 称賛は、不安と恐怖を取り除く偉大な力になってくださることです。

 ステヴァン·M·ポーランは「第2幕」という本で「最も重要な要素は良いことが起きるという信頼だ」どんなことにも結果として良いことが起きると考え「あらまあ、もう死んだ。 ああ、もう終わった」と言わずに、これを通じて「良いことが起きるだろう。 信じれば本当にそうなる。 だから未来に対して希望を持ってみよう。 そうすれば、どんな状況でも可能性を発見し、危機の中で機会を見つけることができる」と考え、告白しなければならないのです。

 人生とは、私たちの人生の前にどんなことが起きるかによって決まるのではなく、私たちがどんな態度を取るかによって決まるということです。 ですから、態度と姿勢がとても重要です。 私たちは否定的な期待を抑え、いつも良いことが起きることを期待しなければならないのです。 環境が私たちを悪くするのではなく、環境に対する私たちの態度が私たちを悪くさせ、良くするのです。 「悲観論者はすべての機会の中で困難を見つけ、楽観論者はすべての困難の中で機会を見つける」とウィンストン·チャーチルが話しました。

 だから私たちは何よりも先に考えを治めなければならないのです。 好事多摩といって、良いことには悪いことが入り込むそうです。 しかし、私たちの心に言葉のプラスで満たし、多摩湖事、悪魔がいて悪いことが多いところにいつも良いことがあるということを考えなければならないのです。 悪いことがどんどん起こるのは、良いことが起こる兆候です。 神様は敵の目の前でご馳走を用意してくださるのです。 敵が来ればご馳走も来ます。 したがって、敵が来たら私たちの普通の考えでは悪いことが起きたと思うが、私たちはプラスの考えで敵が来れば良いことも起きてくるということを信じなければなりません。 聖書にそのように記録されています。 詩篇23編に主が仇の目の前で私にごちそうをして、油で頭に塗って杯が溢れるようにすると言っていませんでしたか? ですから、敵が来るのは良いことであり、悪いことだとは言えません。 神様が祝福してくださるために、敵をあらかじめ送ったのです。

心が重心を失い、よろめいて崩れると、人生は悲惨なものになります。 私たちの中で、心に重心を失って、今よろめいて崩れていく人がいますか? そのまま放っておくと大変なことになります。 心を掴まなければなりません。 ところが、どうやって心をつかむのか。 希望の歌を歌って心をつかまなければならないのです。 「ギリシャ人ゾルバ」を書いたギリシャの代表的作家ニコス·カザンツァキスはこんなことを言いました。 「現実は変えられない。 現実を見る目は変えられるのではないか」現実を私が変えられなかったら現実を良く見ろということです。 プラスの現実を見ろということです。 私たちの人生の現実がいくら大変でも落亡したり不安にならずに希望を語るべきです。

 エマ·ゴールドマンが書いた「希望を探せ」という詩を一度聞いてみてください。 「希望はないのか? 望みはないのか?夢がないのか? それなら作らなければならない。 必ず作らなければならない。 必ず作らなければならない。 絶望しすぎて到底希望と希望がなさそうに見えても、探してまた探さなければならない。 それでもなければ無理にでも作らなければならない。 なぜなら、これ以上夢を見ることができないのは死を意味するからだ」夢を見なければ死が近づいてきます。 死は絶望がもたらすものです。 希望は祝福をもたらすものです。 ですから、決して希望を捨ててはいけません。 希望がなければ無理にでも作らなければなりません。 夢と希望を主張する心の土台を作って下さい。 私たちは無理にでも希望と希望を作り、私たちの心をつかまなければなりません。 神様が私たちと一緒にいらっしゃるので、恐れることはありません。 祈りとお言葉の中で、聖霊の充満で愛と希望の神様を眺めながら、感謝と喜びで明日に向かって進む聖徒たちになることを神様の名前で祈ります。


-祈り-

愛の神様! 風浪に揺れる小さな船のように、人生の風浪の中で私たちの人生はいつも不安、恐怖、焦りと恐怖が訪れます。 しかし、イエス·キリストを心に抱いて聖霊の歴史であることで、プラス人生を生きたいと思います。 言葉を頼りに心を治め、不安で落胆する心を捨てて、勝利する人生を送れるように助けてください。
 イエス·キリストの名で祈ります。
 アーメン!

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