本文:「いわく、誰があなたの脱ぎ捨てたことを君に知らせたのか、私が君に食べるなと命じたその木の実を君が食べたのか、ヤフウェ神がアダムとその妻のために皮衣を作って着せるのか」創世記3章11,21節
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人間の文明は衣服の文明だと言っても無理はないでしょう。 各国は、その自然環境と文化的背景に応じて、それぞれ異なる服を着ています。 服を見ればその国の人たちがアフリカに属しているのかヨーロッパに属しているのか中東人なのか日本人なのか韓国人なのか簡単に分かります。
1. アダムと衣服
創世記に太初でアダムとハワが着た服に関する話が聖書に記録されていますが、その話を見ると本当に面白いです。 初めてアダムとハワが著された時は、罪を犯していない神様の形と形のまま存在したため、栄光が充満しました。 神様の栄光で服を着ているので裸になりませんでした。 今日もそうです。 人々が恩恵が充満して聖霊が充満すれば、顔に光が出て全身に神の栄光が臨んだことを見ることになります。 すると、その人がとても光栄に見え、きらびやかに見えるように、アダムとハワは神の栄光で服を着ていたので、彼らは少しも裸ではありませんでした。 ところが、善悪の果実を食べて犯罪し、神様から遠ざかるやいなや初めて感じたのが、神様の栄光が去ってしまったということです。 神様の栄光が去ると、彼らは裸の存在を発見しました。
アダムとハワは自分が裸になったのを見て驚きました。 それでできることはイチジクの葉をちぎってエプロンを作って着ました。 ところが、イチジクのエプロンが日に当たると乾いてしわくちゃになってしまいます。 また、イチジクの葉を持って服を作って着て、また縮こまると、とても恥ずかしくてエデンの園を歩くことができなくて隠れました。 ところが、小山から神様の声が聞こえてきました。 「アダム、アダム、君がどこにいるのか!」ところがアダムはむしろ神の顔を避けて隠れました。 裸になったので刑罰を恐れて隠れました。
アダムとハワを見つけたのは神様でした。 今日、私たちがこの場に来ることになったのも、神様が私たちを探したから来ているのです。 私たちが神様を探して出てきたのではありません。 神様が私たちを先に呼び、探してその音声に引きずり出されたのです。 私たちが神様を先に愛したのではなく、神様が私たちを先に愛したのです。 神様の栄光を失い、神様を避けて隠れたとしても、神様は私たちを捨てずに探すのです。
良心が裸になると怖いです。 人前に立つことができません。 不安です。 できれば避けようとするのです。 これが人の本能なのです。 私たちが罪がなければ、いつも大胆で堂々とすることができるのです。 ところが、神様はアダムとハワを裸のまま放っておかず、彼らを哀れに思い、獣を捕まえて血を流し、皮を剥いて皮衣を作って着させました。 一番最初に革服を着た人がアダムとハワです。 アダムとハワが革の服を着てエデンを出るとき、今ではイチジクの葉のようにしわくちゃになることを心配する必要はありませんでした。 日差しが出てもうまく彼に対抗できる服になったのです。 呪われた荒れた環境と気候に身を守ることができる革服でした。 この話はとても象徴的な意味があるのです。
2. 象徴的な服
人間が神様を離れて自ら作った服は、裸の恥と絶望を避けようとする努力の一環です。 人間は倫理と道徳的な行為の衣服を作って着ます。 心の中でどうしても罪を隠して正罪を隠したい気持ちがあり、義な行為を持ってこれを覆ってみようと努力するのに義な行為は罪悪を覆い隠せる服にはなりません。 さらに2章16節を見ると、「人が義になるのは律法の行為によるものではありません ただイエス·キリストを信仰によるものだと思っているので、私たちもキリスト·イエスを信じているのだから、これは私たちが律法の行為としてではなく、キリストを信じることによって義だということを得ようとしているので、律法の行為としては義だということを得る肉体がないのだ」と記録します。
聖書は明らかに道徳的な行為として義を負う肉体がないと言ったのです。 姦淫して現場に捕まった女性に対するイエス様の言葉を私たち覚えてみてください。 すべての律法主義者たちが石を持ち上げてその女性を殴ろうとしました。 そしてイエス様に聞きました。 「モーゼの律法には姦淫して捕まった女性は石で打ち殺せと言ったが、あなたはこの女性をどうしますか?」その時イエス様がおっしゃいました。 「君たちの中で罪のない者が先に石で打ちなさい!」打つなと言いませんでした。 おっしゃるとおり罪を犯した人は石で打って当然だ。 しかし、君たちの中で罪のない人が先に石で打ちなさい。 そして、その後にイエス様が一人一人の顔を見て、指で地面に記録するのに何を記録したのかはっきり想像できます。 その人たちの隠された罪悪を記録されたはずです。 君たちがその女の行為を石で打って報いをすれば、その次に君たちが石を打たなければならないだろう。 ですから、すべての人が石を捨てて逃げたことを私たちは知っています。 しばらくしてみると、石だけが地面に落ちていて誰もいませんでした。 その時、イエス様が女に「女よ、頭を上げなさい。 あなたを浄罪する者がいるか?」調べてみると誰もいませんでした。 女性は「すべて行っていません」と答えました。 その次にされたイエス様のお言葉がとても偉大です。 「私もあなたを浄罪しない。 家に帰って二度と罪を犯すな!」 人間は堕落して以来、罪を犯すシステムの中に陥っています。 堕落した人間は人間の力で律法行為をすることができません。 だから、主がその女に家に帰って再び罪を犯さないようにと言ったのは、主が罪を犯さずに生きることができる永遠の生命を与える時までを言うのです。 人間の力と能力では、罪を犯さずに生きることができる義人は誰もいません。
世の中は義人クラブです。 罪がないという人は世の中に皆います。 罪がないという人は教会に来ません。 しかし、教会は罪人クラブです。 だから罪があるという人は教会に来ます。 その理由は教会が神の恩恵を通じて罪を許してくれる所だからです。 教会は人を裸にして凶暴で侮辱するところではありません。 教会は浄罪するところではありません。 人を悪口を言って侮辱しようとする人が教会に来てそれをしようとするなら、その人は教会に間違って来ました。 そうすれば神様にほめられると思いますが、ほめません。 教会は、愛が多くの過ちを覆い隠すと教え、実践する場所です。 したがって、教会は許すところであり、罪を犯すところです。 誰も浄罪しません。 誰もがそこに来て、許しと愛を受け、変化を被るのが教会なのです。 教会は罪人が来て許され、変化を受けるところなのです。 世の中には変化させる力がありませんが、教会には聖霊がいらっしゃるので、聖霊が変化させてくれるのです。 あっという間に変化しなくても、少しずつ変化が近づいてくるのが教会です。 だから教会に来て私たちが罪人であることを告白すれば、神様が70回ずつ7回でも許してまた許してくださるのです。 だから信じない人たちは笑います。 教会に来て、何度も罪を犯して、悔い改めて罪を犯して悔い改めて、それが何の教会だと。 しかしその中で少しずつ少しずつ変化していくのです。 なぜなら、教会は聖霊が歴史していらっしゃるからです。
創世記1章を見れば、神様の神様が空虚で混沌として黒岩が深さの上にいて水面の上に運行された後に空ができて光ができて生物ができて新しい世界が創造されたのです。 聖霊が運行するところには、新しい世界が創造され、変化するのです。 個人も国も世界も、聖霊が運行すると新しい世界に変化するのです。 どんな宗教も私たちを変化させることはできません。 自らが義理堅いという宗教という衣服を着ても偽善者を作るだけなのです。 したがって、イエス·キリストを信じて聖霊が来て変化させてこそ、偽善者ではなく、真の義理堅い服を着た者になれるのです。 世の中の人が作った衣服はすべてイチジクの葉のようなものです。 すべてしわくちゃになるのです。 私たちに永遠に汚れず、衰えずなくならない衣服は、神様がくださるイエス·キリストという服です。 イエス·キリストで服を着れば、キリストが私たちに許しと和解の服になり、義の服になり、永生の服になり、喜びと希望の服になり、平安の服になり、すべての面で私たちを助ける服になることができるのです。
3. 神様の作った衣服
私たちは神様が作ってくださった皮衣を深く考えなければならないのです。 エデンでアダムとハワの裸体を着せるために、獣を捕まえて殺すときに血を流しました。 皮を剥くには血を流さなければなりません。 血を流さずに皮をむくことはできません。 したがって、獣を捕まえて血を流し、皮を剥いて服を作ることは、後日イエスが来て自分の体に血を流し、衣の服を剥いて私たちに着せてくれることを象徴するものです。 だからイザヤ53章5節に「彼が刺されたのは私たちの過ちのためです 彼の傷は私たちの罪悪のためであり、彼が懲戒を受けるので、私たちは平和を享受し、彼が鞭に打たれるので、私たちは癒された」と記録しています。
イエス様は十字架で私たちの罪と過ちを全て受け入れ、自分の生命を私たちに与えました。 だからイエスの死、私の死、イエスの復活、私の復活です。 聖書は私たちが常にイエスの死を体に背負うことはイエスの生命も私たちの肉体に現れるようにしようとすることだと言います。 だから、もうキリストの十字架事件は2千年前に一度起きた事件ではなく、毎瞬間聖霊を通じて私たちの中に起きるのです。 私たちの心の中に毎瞬間、私たちの昔の人が十字架で釘付けにされ、キリストの復活の生命が毎瞬間私たちに与えられたのです。 それを私たちは悟り、眺めて信じて唇で告白すれば、その恩恵の中に入って生きることができるようになるのです。
ローマ書3章23節で24節に「すべての人が罪を犯したので神様の栄光に至らず、キリストイエスの中にある俗量によって神様の恩恵で価値なく義を得た者になった」と記録します。 すべての人が罪を犯したので、その人の力を通じては宗教を持つか、修養と道徳を磨くが、いくら世の中の名誉を持って服を着ても神の前に至らないが、イエスを信じれば、その恩恵で価値なく義を得て堂々と神の前に立つことができるのです。
ヨハネの黙示録3章18節に「私があなたを勧めるから、私から火で縁断した金を買って豊かにし、白い服を買って着て裸の恥を見せないようにし、目薬を買って目に塗ってみなさい」と言ったが、キリストの白い服は何にも買うことができません。 ただイエス様の宝血の功労を信じる信頼の代価を払って生きることです。 宝血は私たちに貴重な贈り物としてくださったものです。 神様が最も望むのは過去の私たちのすべての罪と過ちを脱ぎ捨て、許しと義の服を着せることです。 福音書に記録された帰ってきた蕩子の話を聖書に見ると、蕩子が帰ってくる時に父親が飛び出したと記録されています。 息子が悔悟して帰ってきたらじっと待っているのに、父がなぜ飛び出して出迎えたのでしょうか? 旧約時代に見ると、親に無礼に行い、逆らった子供は石で打ち殺すように言いました。 そのため、父親に不順で家を出て財産を全て使い果たして豚小屋で暮らしていたが、彼も住めなくなると、紙でもしてくれと来る蕩子を洞里の人が見れば石で叩いて殺すこともできます。 それで父親がその息子をどれほど愛しているのか、村の人が出てきて石で打ち殺す前に早くその息子を保護しなければならないと思い、飛び出して息子を連れてきて一番先に良い服を着せろと言ったのです。
神様も私たちをとても愛してくださって一番先に飛び出してきて私たちを保護してくれることを願うのです。 悪魔と邪悪な勢力が私たちを審判できないように飛び出して許しと衣衣衣を着せてくれることを望む方がまさに神様です。 そうでなければ、私たちが救われることはできません。 私たちは審判を受けるしかない存在ですが、神様が私たちを救ってくださるが、永遠の愛で飛び出してきて私たちを抱いてくれるのです。 聖書に蕩子が来る時、父親は召使いたちに「一番良い服を出して着せろ」と言いました。 粗末な服でもありません、以前着ていた服でもなく、最高にいい服を着せるようにということです。 このように神様は、過ちに覆われた人生を聖なる服に着替えるのです。 しきりに過ちを犯し、指摘して人を苦しませるのではなく、神聖な服で着せてあげるのです。 ヘブライ書10章10節によれば「この意味に従ってイエス·キリストの体を一気に捧げることによって私たちが神聖さを得た」と言いました。 イエス様が私たちの代わりに過ちとして審判を受けるので、私たちが過ちから許され、もうその過ちに再び論じないということです。
コロセソ3章12節に「だから君たちは神が選んで聖なる者であり愛される者のように、哀れと慈悲と謙遜と温柔と長く我慢を服を着て」と記録されています。 神様は私たちのすべての人生を服を着ることに例えておっしゃるのです。 ですから、私たちはもうこの世にイチジクの葉でできたしわくちゃな服を着て生きる人ではありません。 私たちは神がイエス·キリストを通じて奇跡的な衣服を着せてくれた人です。 ですから、私たちに良いことが起こったのは、それが起こりうる信頼を与えてくれたからです。 神様が誰であれ、この山々に命じてあの海に投げろと言えば、その通りになるということです。 特別な人だけになるのではありません。 私たちもその仕事ができます。 イエスを信じる人は皆、山を移すことができる信頼があるのです。 私たちがキリストの服を着て運命と環境に勝ち、生命が充満した人生、たちまちと来世で勝つ人生を生きていくことができます。 なぜなら、この衣服を着た人々は神を信じることができる胆力が生まれるからです。 ですから、たとえ皆の心に疑いがこもっていても、1%の信頼さえあれば山を移すので、より多くの信頼がないと嘆かないでください。 1%の信頼を使うと、その信頼が育つのです。
2週間前に私が祈祷院に説教しに行ったのですが、祈祷院で使役する牧師の13歳の息子が祈祷を受けに来ました。 中学校に入ってサッカー部にいる息子は足が腫れて痛いので病院に行ってレントゲン写真を撮ったところ、骨の髄までがんが広まりました。 がんが骨だけでなく、肉まですべてががんにかかり、医師がびっくりしました。 これでも足の骨が折れなかったのが珍しいと言いながら、うちの病院では治療できないから大学病院に行くように言いました。 大学病院に行ってみたら、首を振りながら原子力病院に行くように言われて、病院に行く前に祈祷院に連れてきました。 その子がしきりに私たちの牧師の按手祈祷を受けられるようにしてくれと言ったそうです。 しかし、息子を連れてきても、父親の心の中には99%の疑いがぎっしり詰まっていました。 「骨の中まで癌にかかった子供、一般病院から大学病院に先送りし、大学病院は癌専門病院に先送りするが、どうやって産むか」というようにです。 しかし、1%の信頼を持って神様はできると祈祷を受けるが、幼い子供が祈祷を受けてどんな感じかと尋ねると、祈祷を受けるとピリピリすると言ったそうです。 それで、その道をがん専門病院に行って写真を撮ると、がんが跡形もなく消えたのです。
非理性的なのではないですか? 非合理的なのではないですか? これは人間的な世の中でありえないことではないですか? 信じない人たちに話すと狂ったと言うんじゃないですか? したがって、このような信仰は世の中的な信仰ではなく、創造的であり、神と言葉を信じる信仰で理性と世の中を超越する信仰です。 ですから、神様を信じる信仰に強く、大胆になってください。 非理性的で非合理的でもいいです。 神を信じることは創造的な信仰です。 死者を生かして、ないものをあるようにする信頼です。 だから神様がそのような信頼を持った私たちに「あなたの信頼通りになる」とおっしゃるのです。 信念どおりになるのです。
今日も我々がこの信念を持って使えば、いくらでも多くの山を移し、勝利する人生を送ることができるのです。 人間的な信仰であるイチジクの葉で服を編んで合理的で論理的に生きようとする人とはあまりにも違うのです。 神様が神様の息子イエスをプレゼントしてくださいました。 その贈り物を通じて私たちは許され、義理堅いということを得て子供になり、聖霊様を祀って神様の信頼を使える人々になったのです。 私たちの中には神様がくださったこの信頼があります。 創造的な信念があります。 したがって、今日この時間にイエスの名前で祈れば問題が解決されます。 教会はただ毎週行ったり来たりして宗教行為をする場所ではありません。 変化と奇跡が起こるところが教会です。 まさに今日、この場で私たちの主を通じて多くの奇跡の歴史が現れることを主の名前で祈ります。
-祈り-
愛の神様! 汚くて醜悪で貧しく呪われ病気になった世の中の服を剥がして下さり、イエス·キリストの宝血で清潔になった神聖な白い服で私たちを着せてくれた神様の恩恵にとても感謝します。 これからは山を移すだけの信頼の目を持って生きていくことを願います。 日々私たちの信頼を回復させ、私たちの人生の中で奇跡として歴史してください!
イエス様の名前でお祈りします。
アーメン!
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